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ラッカー「ホワイトライト」と無限と連続体問題

「ホワイトライト」がどんな話だったかほとんど憶えてない。 連続体問題については容易に参照できる資料がたぶん色々あるはず。 でも「ホワイトライト」の解説もかなりいい加減だった気がするので、 気にしない事にする。

とりあえず関係ありそうな出来事をいくつか並べておく。

「濃度」「基数」「連続体問題」の説明

連続体問題を説明するには、まず「濃度」とか「基数」の説明がいる。

何かと何かを比較するやり方のひとつに「数える」というのがある。 その「数える」事にとって最も基本的なのは 「1対1に対応づける」とか「同数」といった考え方で、 集合論の創始者であるカントールは、 この「1対1の対応」という考え方を用いて「無限を数え分類する事」を数学に導入した (同時期、現代論理学の創始者であるフレーゲも「1対1の対応」を用いて、 自然数を論理学的概念として定義している。 また、子供が数えられるようになる過程でも1対1に対応させる事との理解が重要だ、 という研究結果があるとかいう話を聞いた事があるような)。

「無限を比較する」場合、「同数である」事を「同じ濃度である」という。 「同数だ」と言っても、たぶん伝わると思うけど。

次に「基数」。 例えば、1年の月の名前と干支の動物とは1対1に対応させる事ができて、 普通この対応に対して「12」という自然数のラベルが与えられる。 このように、自然数には「数える時のラベル」という役割がある。 このラベルを無限について拡張したものを「基数」という (もともとは、基数の定義には 1対1対応があるものどうしで同値類を取るという 数学でよくやるやり方をされていたけど、 それでは矛盾が起こるので、もっと別のやり方で定義されるようになっている)。 自然数の濃度(最も小さい無限濃度)に対する基数は「アレフ0」と呼ばれる。

そして「連続体問題」というのは、この「濃度」とか「基数」に関する問題。

実数(=連続体)の部分集合で有限ではない集合の濃度について考える。 まず、 実数全体の濃度は自然数全体の濃度より大きい、という集合論の基本的な結果がある。 つまり、実数の部分無限集合の濃度には少なくとも、 実数全体の集合濃度と自然数全体の集合の濃度という2種類がある。

では「実数の部分無限集合の濃度はこの2種類だけなのか」。 言い替えると「実数の部分無限集合は必ず 自然数全体または実数全体のどちらかと1対1に対応するのか」。 もっと集合論っぽく言い替えると、 「アレフ0(自然数の基数)の次の基数は、 2^アレフ0(自然数のベキ集合の基数。実数の基数と等しい)なのか」とか 「2^アレフ0 = アレフ1か」とかになる。

この問題を連続体問題と呼び、これが成り立つという予想を連続体仮説と呼ぶ (カントールは連続体仮説が成立するだろうと考えていた)。 例えば、有理数全体の集合とか代数的数全体の集合は自然数と同じ濃度、 無理数全体の集合とか超越数全体の集合あるいはカントール集合なんかは 実数と同じ濃度。 知られている集合は、必ずどちらかになっている。

連続体問題は、数学の問題として別におかしなものでは無い。 何かの種類について、その種類が知られているものだけで既に尽きているのか、 それとも他にもあるのか、という問題設定は数学でよくあるものだし (ただ、連続体問題が提出された時には、 集合という考え方そのものがまだ無かったのだけど)。

「カントールの連続体問題とは何か」

「ホワイトライト」の副題にもなっているゲーデルの論文 「カントールの連続体問題とは何か」(邦訳は「リーディングス 数学の哲学」に収録) は名前の通り連続体問題を解説したもので、 専門的な論文以外のゲーデルの文章の中では最も有名なものらしい。

数学的には、この文章に現れているような 巨大基数の存在公理から連続体問題を解決し得るというゲーデルの見解が、 巨大基数の集合論の発展に影響を与えたらしい。 また哲学の方では、 ゲーデルの数学的実在論の立場を表している論文としてよく参照されるみたい。

連続体問題は実数の問題でもあるけど、 濃度とか基数の概念は集合論で基本的なものだし実数論より集合論の方が強力だから、 実数論ではなく集合論で扱われる (たとえ元々は解析学で提出された問題でも、 連続体問題の成否に関係すると解れば その問題は集合論の分野に入る事になる。たぶん)。

そして現在の集合論は公理に基づいて展開される公理的集合論なので、 公理的集合論の説明がいくらか要る。

公理的集合論

集合論の公理系としては、最も標準的なZF(+選択公理)を考える。

集合論の公理の主な役目は、 どんな集合が存在するかを示し様々な集合を導くための基盤を提供する事で、 もう少し詳しく見るとおおざっぱに2つの役目がある (2つの役目の間には何か緊張関係のようなものがある感じもあるけど、よく解らない)。

例えば置換公理は大きな集合を得るための非常に強力な手段を提供する。 何か適当に系列を定義できたとしてそれに置換公理を使うと、 すでに得ている集合を元手にして、系列の要素からなる集合が得られる。 集合に対しては集合操作(集合演算)が行なえるので、 系列の極限操作に対応する事とかの操作を集合に対して行なえて、 より大きい(かもしれない)集合が得られる。 より大きな集合があれば、より大きな系列の集合を得る事ができるので、 置換公理を繰り返し使う事でどんどん大きな集合を得ていける。

どんどん大きな集合を得ていくという方向に比べると、 部分集合の特徴づけの方が何か難しさを含んでいるのかもしれない。

ある集合に対してベキ集合公理を適用すると、 その集合の任意の部分集合からなる集合の存在が言える。 でも「任意の部分集合」がいったい何なのかという事がはっきりしない。 「任意の部分集合ってのはその集合の元のあらゆる組み合わせだ」と言い替えても 問題は変わらなくて、 今度は「無限集合の元のあらゆる組み合わせ」を特徴づけないといけない。 部分集合の特徴づけの問題はベキ集合公理だけ見ても全く解らず、 他の公理とか公理系全体にゆだねられる。

そして、連続体問題は(ついでに、選択公理の成否も)、 この部分集合の特徴づけに関する問題だと言える。

でも、すでにゲーデルとコーエンにより、 ZF(とかそれとだいたい同等の強さの公理系)では 連続体仮説の肯定も否定も証明できない事が示されている。 つまりZFでは連続体問題を解決できない (「カントールの連続体問題とは何か」が書かれた時点では 連続体仮説の独立性は証明されていないけど、 ゲーデルは独立だろうと予想していて、論文もその立場から書かれている。 それから、論文にはたぶん出てきてないけど、 ゲーデルは「2^アレフ0 = アレフ2」と考えていたはず)。

一方ZFは普通に数学を行なったり集合論を展開するには充分強力だとされる (それどころか普通に数学を行なうだけなら Z(置換公理がなくて代わりに分出公理しかない体系)でも充分、と言われる事もある (「普通の数学」というのがどの範囲を指すのかはっきりしないし、 あるいはカテゴリーと集合論の関係とかもよく解らないけど、その辺は深く考えない)。 例えば、ベース0 = アレフ0、ベース1 = 2^ベース0、ベース2 = 2^ベース1 ... と呼び、この基数列の上限の基数をベースωと呼ぶ (「ベース」は、ヘブライ文字の2文字目の名前)。 Zでは(つまり置換公理が無い場合)ベースωの存在が言えなくなってしまう。 でも普通の数学でベースωぐらい大きな集合が出てくるなんて事はたぶん無い。 例えば、実数の集合とか実数の可算個の直積集合の濃度はベース1。 実関数(実数から実数への関数)全体の集合でベース2。 実関数から実関数への関数全体の集合でもやっとベース3)。

でも、ZFの公理系で充分に集合論が展開できるとしても、 ZFに追加できそうな公理が全く無いというわけではない。 そういう公理として、巨大基数の存在公理がある。

巨大基数

より大きな濃度の集合を得るための基本的な集合操作には、 「和集合をとる」操作(極限をとる操作もこれに含まれる)と 「ベキ集合をとる」操作がある。 ZFではだいたい和集合公理と置換公理が前者の操作に対応し、 ベキ集合公理が後者の操作に対応する。

また、より大きい基数を得るには、 基数の「和をとる(極限をとる)」「次の大きさの基数をとる」「ベキをとる」がある (一般連続体仮説が成り立つ場合には、 次の大きさの基数をとる事とベキをとる事は同じ事になる)。

ここで、より大きな基数をとる操作と基数に関係する言葉を定義する。

正規でかつ(強)極限的である基数にはアレフ0がある。 アレフ0は最も小さい無限基数なので、 アレフ0より小さい濃度の集合は有限集合だけ。 有限集合の有限和を取っても有限集合になるし、 有限基数(自然数)の次の基数は有限基数だし、 有限集合のベキ集合も有限集合になるので、 アレフ0は正規かつ(強)極限的。

そして、アレフ0より大きい基数で正規かつ(強)極限である基数を、 (そういう基数が存在するかどうかは置いといて)(強)到達不能基数という。 強到達不能基数は、もし存在するとしたら非常に大きな基数になる。 例えばアレフ0の集合から始めて、 どのように和やベキの操作を繰り返して大きな濃度の集合を得たとしても、 それよりも強到達不能基数の方が大きい。 (強でない)到達不能基数の方も少なくともアレフの系列では非常に大きいのだけど、 ベキ操作との関係は連続体問題の答え次第。

それで(強)到達不能基数は存在するのかいうと、ZFでは存在を証明できない。 存在が証明できないという事は、 無いと考えてもZFとしては別に支障がない、という事になる。

でも(強)到達不能基数は存在すると考えていけないわけではないし、 「集合「全体」を集合的性質を用いて特徴づける事は出来ない」とする Cantor's Absoluteという考えに基づく(強)到達不能基数の存在の主張がある。

とりあえず仮想的に集合「全体」というのを考え、 その「全体」は(強)到達不能基数を含んでいないとする。 「全体」は集合ではなく、またどんな集合よりも大きい(当然アレフ0より大きい)。 また集合に対して公理的集合論で認められる操作をどれだけ行なっても、 得られるのは集合だけで、「全体」より小さい。 なので、「全体」は正規という性質も(強)極限的という性質も持っていると言えて、 つまり(強)到達不能という事になる。 とすると(「全体」以外に(強)到達不能なものがない事になったから) 「全体」を(強)到達不能という性質で特徴づけられる事になり、 Cantor's Absoluteの考えに反する。 したがって(強)到達不能基数が存在する。 あるいは、仮想的に「全体」だと考えたものは実際には「全体」ではなく、 集合(=(強)到達不能基数)だったと考えることもできる。 (こういう議論をもっと洗練させたものがReflection Principle。 この辺の話は「ホワイトライト」にも出てきているかも)。 そして集合論的に(強)到達不能基数の存在を認めるには、 (強)到達不能基数の存在を公理として追加すればよい。

さらに到達不能基数よりももっと大きな基数の存在公理を考える事もできる (そういう話はたぶんA.J.カナモリ「巨大基数の集合論」に載っていると思う。 でも見た事が無い。 Feferman 「Does mathematics need new axioms?」 の脚注に、 巨大基数の名前が「巨大基数の集合論」からひかれているので、それを並べておく。 「inaccessible」 「Mahlo」 「weakly compact」 「indescribable」 「subtle」 「ineffable」 「Ramsey」 「measurable」 「strong」 「Woodin」 「superstrong」 「strongly compact」 「supercompact」 「almost huge」 「huge」 「superhuge」。 ただし、こうした巨大基数の全てにCantor's Absoluteの議論が 適用されるわけではないみたい。 あとラッカー自身による巨大基数の解説が「無限と心」にあるみたいだけど、 訳者が悪訳で定評ある人だし)。

巨大基数と連続体問題

連続体問題は部分集合の性質に関わる問題だから、 巨大な集合の存在を認める事とは関係ないように思える。 けれど実際には、巨大基数の公理から 自然数の部分集合などについてZFだけでは証明できない性質が証明できるみたい。

大きな基数の存在を認めると部分集合の性質もより詳しく解るという事は、 巨大基数の公理から連続体問題を解決できるかもしれないという期待がでてくる。 ただ、巨大基数の公理から連続体問題を解決するというのは、うまくいってないみたい。

こういう、より大きな無限の存在から連続体問題を解決するって話は、 「ホワイトライト」にも影響を与えているのかも。解らないけど。


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